ハンゲームの天才小説家あしょかんが書き溜めた小説の中から選び抜かれた傑作を公開!



「遠い世界のはつこいの話」

「ないの。」

「え?」

「なまえがないの、わたし。」

「どうして?」ぼくが訊くと、かのじょは不思議な質問をされたというように首を傾げた。

「なまえが必要かしら?」

かのじょは微笑んで、ぼくの手を触った。

「ここにわたしがいるし、あなたがいるわ。なまえなんて、必要のないものよ。」

わたしがいるし、あなたがいるわ。その夜はずっとその言葉を頭の中で反復していた。翌日になって、検体に手を触れたとして、管理局からご丁寧にもお叱りの通達が来た。

 

 

 

夢の中で、かのじょを見付けた。通路で擦れ違う人の中に、かのじょの無表情な顔があったのだ。振り返った瞬間にはかのじょはもうずっと先にいて、呼び掛けようとすると、言葉が出てこない。そうだ、ぼくは名前を知らない。かのじょには名前がない。追い掛けようとしたが、後から後からやって来る人の波が邪魔をして、かのじょの背中はどんどんと遠退き、ついにはその姿は小さな点にしか見えなくなってしまった。諦めて振り返ると、ぼくが押し退けた人たちが非難の視線を向けていた。

やっぱり名前は要るじゃないか。

 

かのじょにこの話をしようと、隔離センターに足を運んだら、ぼくのIDでは接触はさせられないと門前払いにされた。一週間前には何の問題もなく出来たと食い下がったら、課長と呼ばれる腰の低い男が出てきて、丁寧ながらも厳しい口調で接見禁止にさせてもらったと伝えた。やはり手を触れたことが理由らしい。せめて遠隔通話だけでもと頼み込んだが、課長は短い首を横に振るだけだった。世界が急に遠退いたような気がした。

 

シェークスピアという、すごく昔の人が入力した戯曲を読んだ。どうしてあなたはロミオなの、薔薇と呼んでいるあの花を、別の名前で呼んでも、同じように香しい。名前が無いとは、どういう気持ちなのだろう。薔薇の名前が違うことはあるかもしれないが、何の名前もないということはない。名前がなければ、それは一体なんだろうか。名前がいったい何だというの。わたしがいるし、あなたがいるわ。かのじょの言葉が頭に過ぎった。ところで、薔薇とはどんな花なのだろう。この星にはチューリップ以外の花は一輪も植えられていなかった。

 

それからすぐに戦争が起きて、それどころではなくなった。四機の反射鏡のうちの二機が墜とされて、星は薄暗く、そして凍えるように寒くなった。戦況は決して思わしくなく、悲観的な歌が流行した。

そんなある日、下で配給の列に並ぶ二等民の中に、かのじょの姿を見付けた。なぜ、こんなところに。初めは見間違いかとも思ったが、何度見ても、その姿はやはりかのじょだった。数え切れないほど夢に見たのだから、間違いない。センターからどうやって出て来たのだろうか。なぜ、二等民に混ざっているのだろうか。様々な疑問が頭を過ぎったが、それに対する答えは一つも思い付かなかった。

列が徐々に前へと進んでいく。なんだか、あの時の夢をもう一度見ているみたいだ。この機会を逃したら、かのじょとはきっともう会えないという、嫌な確信があった。夢のように、点になって、そして風景に溶け消えてしまう。呼び掛けようとしたら、名前が出てこない。そうだ、かのじょには名前がなかったのだ。慌ててかのじょの傍に近寄ったら、周囲の二等民が蜘蛛の子を散らすように逃げていった。管理局の職員が、そんなことをされては困るといった顔をぼくに向けている。

ぼくは構わずに、湿った地面に目線を落としていた彼女に声を掛けた。彼女は手に、薄汚れた小さな容器をしっかりと抱えている。

「ねえ、ぼくのこと、覚えてるかな。」

彼女は顔を上げると、ぼくの顔を見付けて、咄嗟に手に持っていた容器を身体の後ろへと隠した。それから、その自分の行動に言い訳をするように曖昧な笑みを浮かべて、まるで何かのパーティーで昔の恋人に鉢合わせたみたいな口調で言った。

「あら、お久しぶりね。」

「どうして、こんなところにいるの?」ぼくが訊くと、彼女が後ろ手の中の容器をぎゅっと握り締めたのがわかった。彼女は一瞬だけ悲しい目をして、管理局の職員を気にしながらも、声を落として説明をしてくれた。

「センターが閉鎖されたの。ほとんど処分されたけど、私は知らない人に逃がしてもらえた。でも、なまえがないから、上は歩けない。だから、ここにいるの。」

なぜ、かのじょがこんな待遇を受けなければいけないのだろうか。自分が二等民に混ざって食事をするところを想像したら、喉の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。ぼくは、かのじょのことを助けてあげたいと思った。

「よかったら、うちにおいでよ。このご時世だから大したものはないけど、人工食よりはよほどマシだと思うよ。」

そう話している先から、先ほど逃げていった二等民が集まってきて、配給の列に再び並んでいる。中にはまだ足元も覚束ないような子供さえいた。精製が不十分な人工食から出る、ツンとした鼻を突くような臭いが、辺りに漂っている。

「でも、そんなことをしたら、今度はあなたが嫌な目に遭うと思うの。」

かのじょは俯き加減に言った。「そんなの…」構わないよ。ぼくはそう言いたかったが、彼女の後ろに列を作る二等民が目に入ったら、言葉が続かなかった。触れるだけでも警告があったのだ。匿いでもしたら二等民にも、いや、三等民にまで落とされかねない。学生時代に授業で見せられた、鉱窟で働かされる三等民の姿を思い出したら、嫌な汗が吹き出した。

「ね。」

ぼくが黙っているのを見て、かのじょは少し寂しげに笑ってみせた。次の瞬間、ぼくはかのじょの手を取って走り出していた。なぜ、そんなことをしているのか、自分でも判らない。もう考えるのは面倒臭かった。後はどうとでもなれ。目に入る全ての景色が後ろへと流れていく。耳が熱くなって、目からは水が流れた。

 

 

反射鏡はもう一つ墜ちて、いよいよ事態は深刻になった。エネルギー不足から下の換気装置が切られ、二等民の約半数が死んだというニュースが流れている。上はというと、かなり暗くなった以外は、あまり変化はない。だが、この星がもう長くは持たないであろうことは、上にいる人間ならば誰もが知っている。時折、空に小さな閃光が走った。防衛線はすぐそこにまで後退していた。

管理局から退避勧告が来たのは、それからすぐのことだった。かのじょに伝えるべきか迷ったが、どうせ何処かで知ってしまうだろうから、伝えることにした。一週間以内に星を出なければいけないのだと言うと、かのじょは意外にも落ち着いた様子で、「じゃあ、おわかれね」と言った。

何と言っていいかわからなくて、沈黙が流れた。

「なんとかするよ。」

無言に堪えられなくなったぼくがあまり深く考えずにそう言ったら、かのじょは悲しい顔をして、諭すような口調ではっきりと言った。

「二等の人たちですら星船には乗れないのに、なまえのないわたしではどうしたって無理なことは、あなたも解っているでしょう。」

「でも…、混乱に紛れれば…。」

どう考えても無理だった。現実のID識別は、小説や映画のように上手く擦り抜けたりはできない。ロボットはミスをしないし、賄賂も受け取らない。強行突破なんて以っての外で、忽ちに二人とも分子レベルまで分解されるのがオチである。下手な慰めではかのじょを悲しませることしかできないと気付いて、ぼくは口を閉じた。悔しくて、水が零れた。

「わたしはだいじょうぶだから、泣かないで。」

泣くってのは、水が落ちることなのか。シェークスピアの小説の意味がやっと解ったように思う。ジュリエットもきっとこんな気持ちだったのだ。水を見られるのが恥ずかしいような気がしたので、視線を外に移したら、空も静かに泣いていた。

「ぼくの名前をあげるよ。」

かのじょは何も言わなかった。

 

それ以来、退避の話題には触れることなく、全星の混乱の中で一週間はあっという間に過ぎた。既に殆どの人が行ってしまったので、町は気持ちが悪いくらいに静まり返っている。取り締まる人間も少なくなったため、上でも二等民の姿を見掛けるようになった。

昼になって、もうすぐ最後の星船が飛ぶと、管理局の職員がわざわざうちにまで伝えに来た。二等民がうろついていて危ないから送って行くと言われたので、自分は行かないと伝えたら、部屋の奥から怖い顔をしたかのじょが出てきて「行かないとだめよ」と突き放すように言った。職員の男はかのじょを見て何かを言いたそうな顔をしていたが、特に口を開いたりはしなかった。ぼくが黙っていたら、かのじょが捲し立てるように言葉を続けた。

「どうせ、この星は終わりよ。わたしは星ごと凍るか、ビーム照射で蒸発するかのどちらかなの。あなたまで一緒に死ぬことに何の意味があるというの。わたしは別に一緒に死んでもらいたいなんて思っていない。そもそも、ここにだってあなたが勝手に引っ張ってきたのよ。自惚れるのもいい加減にして。」

あまりの言い草に、ぼくは泣き出してしまった。人はどういうときに泣くのだろうか。悲しいときにも、悔しいときにも、よくわからない気持ちのときにも水が溢れてくる。一つ解っているのは、かのじょといると、ぼくはたくさん泣くということだ。

「連れてきたこと、迷惑だったなら、ごめんね。でも、ぼくは、置いていくのを、躊躇ってるんじゃないよ。ぼくが、勝手に、傍にいたいって思ってるんだ。最初から、最後まで、自分勝手で、ごめんね。」

泣くと息が詰まって、上手く話せない。ぼくが途切れ途切れに話し終わると、彼女は呆れたといった顔をして溜息を一つ吐き、それから怒ったみたいに悲しいことを呟いた。

「じゃあ、わたしが今すぐにしねばいい?」

ぼくは、また泣けてきた。

「そうしたら、ぼくも、死ぬ。」

ぼくとかのじょの話が決着しそうにないと思ったのか、管理局の男は「昼までに来なければ身の安全は保証できない」と言い残して去っていった。男が行ったら、かのじょはぼくの顔も見ないでベッドルームへと行って、内側からロックを掛けてしまった。呼んでも、返事は返ってこなかった。

 

最後の星船が飛び立つ時間になった。結局、ぼくは行かなかった。かのじょの言うように、意味のないことをしていると思う。ベッドルームの前で、もう一度かのじょを呼んでみた。

「もう間に合わないよ。」

返事がない。本当に死んでしまったのだろうか。

「ねえ、そばにいたい。」

また泣きそうになったら、そのときロックが外れる音がした。恐る恐る中を覗いてみたら、かのじょはぼくらが一緒に寝ていたベッドに腰掛けて、窓から外を眺めていた。

「行っちゃうよ。」

かのじょは言った。星船のことだろう。

「さっきはごめんね。」

そう謝りながらかのじょの顔を覗きこんだら、かのじょもぼくと同じように水を零していた。彼女を悲しい気持ちにさせてしまったのだと思ったら、ぼくまでまた泣けてきてしまった。自分が泣くより、人を泣かせるほうがずっと嫌な気持ちがすると知った。

 

「なまえ、付けてあげようか。」

「要らないよ。」

「せっかく一週間かけて考えたのに。」

「そっか。じゃあ、聞かせて。」

すべすべとした外観の巨大な星船が、泣きっぱなしの空に次々と上がっていく。町にいた二等民たちが、それを無表情な顔で眺めていた。最後の星船が行ってから一時間も経たないうちに四つ目の反射鏡が爆発して、世界は真っ暗になった。暗闇の中でかのじょの手を握ったら、なまえなんて必要ないと言ったかのじょの言葉が、やっと理解できたような気がした。

次の瞬間、急に周囲が、戦争が起こる前のように明るくなって、そして、全てのなまえがなくなった。




おわり